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단어 상세정보

木村庄之助 (14代)

庄之助(じゅうよんだい きむら しょうのすけ、1826年(文政9年) - 1884年(明治17年)8月14日)は、大相撲の立行司。本名は広田(?)。出身地不詳。 10代木村庄之助(9代庄之助の再勤)の弟子。1837年(天保8年)10月場所において、木村留吉の名で初めて番付に載る

관련 단어

木村庄之助

村玉之助が裁いたこともあり、副立行司が存在した時代はこれが受け持ったこともある。幕内最高優勝の決定戦で、出場力士の最高位が横綱・大関の場合に立行司が裁くが、現在はその場合、庄之助と伊之助のどちらが裁くかは事前に定めてもう一方が控えとなる。 番付上庄之助と伊之助が揃っている状態から先代の庄之助が引退し

木村庄之助 (27代)

本名:熊谷 宗吉(くまがい そうきち)、岩手県盛岡市出身。 1935年の夏に「ひげの伊之助」こと19代式守伊之助(当時は8代木村庄三郎)にスカウトされ、そのまま弟子入り。弟弟子に10代式守与太夫(元三役格)、31代木村庄之助がいた。1936年1月場所、「木村宗吉」の名で初

木村庄之助 (29代)

28代式守伊之助昇格直前に、「平常心」と記された軍配を用いるようになり、その後、立行司在任中、東京場所では主に千秋楽のみ(譲り団扇を使うため使用しないこともあった)、地方場所では15日間通しで使用していた(地方場所では、時々別の軍配を使用することもあった)。また、ほんの一時期ではあるが軍配の表面「平常心

木村庄之助 (37代)

青森県上北郡六戸町出身。4代木村玉治郎(後の27代木村庄之助)に入門。高島部屋に預けられる。 1965年7月場所に、木村玉三郎として初土俵を踏んだ。1977年1月場所に、初名木村三治郎より5代木村玉治郎襲名。1989年1月に十両格に昇格、2001年1月に幕内格に昇格。2003年1月場所に10代木村庄三郎襲名。2007年9月に三役格に昇格。

木村庄之助 (25代)

物言いがつき、立行司22代伊之助は行司差し違えとなり、この一番は貴ノ花(前頭筆頭)が勝利した。伊之助は同場所12日目(大関大麒麟対関脇長谷川戦)にも差し違えており、協会に進退伺いを提出したが、庄之助が退職して間もない上、立行司不在の場所は過去前例がなく1日の謹慎処分となった)。

木村庄之助 (33代)

2007年3月場所千秋楽を最後に停年(定年。以下同)を迎えた。最後の一番は同場所優勝決定戦の横綱朝青龍-大関白鵬戦だったが白鵬が注文相撲をとる呆気ない一番となってしまった。 1955年5月 - 初土俵・木村要之助 1963年7月 - 改名、式守要之助 1963年9月 - 木村要之助に戻す 1964年7月

木村庄之助 (38代)

38代 木村 庄之助(さんじゅうはちだい きむら しょうのすけ、1959年9月22日 - )は、大相撲の立行司。高田川部屋所属。本名は今岡 英樹(いまおか ひでき)。 島根県出雲市出身。少年時代は高砂部屋の元大関前の山(8代高田川)のファンで、それが相撲界入りのきっかけとなった。もっとも、最初から行

木村庄之助 (26代)

に戸田の足が土俵を割っていたとして大鵬に軍配を挙げた。しかし物言いがつき、協議の結果(春日野審判長を除く4人の勝負審判全員が戸田有利とした)、行司差違えで戸田の勝ちとなった。当時45連勝中の大鵬の連勝はこれでストップした。 翌日、新聞各紙の写真で、戸田の足が大鵬よりも先に出ていることが確認され、大

木村庄之助 (19代)

、東西の花道は竹垣で囲われ、勝ち力士に贈られる桜菊の造花もそこに並べられ、勝者はこれをかざして支度部屋に引き上げた。取組は御前掛かりの古式に則り、東西に1人ずつの言上行司が置かれ、力士が登場するごとにその名を皇族に告げた。力水は羽織袴姿の役員が行い、行司の発声は故実にあるように「よい、はっ」。台覧

木村庄之助 (17代)

弟子に19代伊之助がいる。 1869年 初土俵(大坂相撲)。 1885年 東京相撲に移籍。 1887年1月 幕内格(紅白房)に昇格。 1901年1月 三役格(緋房)に昇格。 1905年5月 紫白房に昇格。 1911年5月 立行司・10代式守伊之助を襲名。 1912年5月 立行司・17代木村庄之助を襲名。 1921年5月 場所限り引退。

木村庄之助 (23代)

県出身。朝日山部屋所属。木村正直(2代)を47年間と長期にわたって名乗っていたため、正直庄之助(まさなおしょうのすけ)とも呼ばれている。 行司が刀を差せることに魅力を感じて小学校時代の1908年入門。初土俵は1909年(明治42年) (大坂相撲) 。初名は木村藤吾。師匠は大坂相撲出身で、初代木村正直

木村庄之助 (24代)

最初阿武松部屋、のち出羽海部屋に所属した。行司名は木村芳松→式守義(義松とする資料も有)と変わったあと、1927年に式守伊三郎 (初代) と改名し、その後、1949年1月、式守代々の名跡式守鬼一郎 (5代) 、1960年1月、立行司20代式守伊之助、1963年1月、24代木村庄之助を襲名し、柏鵬時代

木村庄之助 (16代)

右目が悪く風貌は上がらなかったが梅常陸時代を代表する行司として人気があった。 衣擦れの音がすると目を覚ますというほどの粋人で女性関係の逸話が多かった。 亡くなるまで髷を結っていた。 木村庄之助 述、河合英忠 画『相撲四十八手 : 附・裏四十八手』金洪舎、1911年6月19日。 

木村庄之助 (18代)

仕切り直すこと30回、54分経過(当時仕切り制限時間無し)してようやく両者立ち合った。取組がいよいよ佳境に入ろうかという所で大錦が取った前廻しが三杦磯の胸まで延びたのを見て朝之助が廻し待ったをかけるが実際には締め直す程には緩んでおらず、控えの大関常ノ花に「分けだ」と言われた三杦磯は廻しを締め直

木村庄之助 (30代)

裁いたほか、2002年11月場所13日目、大関朝青龍(当時)が初優勝を決めた一番(対関脇若の里)を裁いている。 この世界に入るまで筆を持ったこともなかったというが、研鑽を重ねて習得した相撲文字の上手さは天下一品であり、助手時代を含め計30年にわたり番付書きに携わった

木村庄之助 (11代)

天保の初め頃に庄之助襲名争いでしばらく姿を消した。義兄の再勤・10代庄之助の没後に晴れて11代庄之助を襲名。しかし病弱で天保14年(1843年)の上覧相撲は欠場、実父の松翁が没すると同時に引退した。 「相撲」編集部 編『大相撲人物大事典』ベースボールマガジン社、2001年4月1日。ISBN 978-4583036403。

木村庄之助 (22代)

われた19代式守伊之助とともに、大相撲人気絶頂である栃若時代の土俵を裁いたが、1959年11月、69歳のときに協会に65歳停年制が導入され伊之助と同時に退職、21年間の立行司生活であった。 最後になった1959年11月場所の場所前、熊本の吉田司家から「松翁を許すことが決まったから受けてもらいたい」

木村庄之助 (31代)

大関千代大海龍二(現九重)。 ハリのある力強い呼び上げと掛け声が特徴的で、軍配裁き、知識、指導力にも優れていた。 事務能力にたいへん優れ、また土俵上の所作はきびきびとしており、軍配裁きも的確だった。番付こそ書かなかったが書の見事さは天下一品と言われた[誰によって?]。 2004年9月場所13日目 横綱朝青龍 -

木村庄之助 (21代)

年寄・6代山響の養子となり、1897年、わずか8歳で初土俵を踏んだ。初名は3代式守与之吉で、20代庄之助が兄弟子である。1913年1月場所8日目に青白房(十両格)に昇格。 1914年5月9日目に本足袋に昇格。4代式守勘太夫を襲名した後、立行司11代木村玉之助に昇進した。その後17代式守伊之助を経て、